5月18日、横浜大会でのタイトルマッチ(菊田早苗VS近藤有己戦)の当日より前に、両選手ともにヒロト道場で治療をして試合に臨んでもらったのですが、トレーナー、治療家としての立場も、レフリーとしての立場も、どっちが勝ってもそれは関係無しです。唯一、違うとすれば、トレーナーとしては、どちらも勝ってもらいたいと思います。レフリーとすれば、最終的にどちらが勝ったかをコールする人間なので、どちらが勝とうが何をしようが、勝負の想像をする事すらありません。これは本当の話しです。良く試合以前に、「今度の試合どうですか?」と尋ねられても、「知らない、わからない」と言うのは、そういう試合がある事は解っていますが、その数日前から、その部分が空白の状態、頭の中に入っているものではないからです。基本的に、その試合の何がどうこうという想像をしません。そうしないと、あるがままのものを見て、捉えて、コールをするという事は、短い時間の中で、皆さんを代表する形であのリングに上がっている以上、6000人の前で、そしてTVも入っていましたから、試合の数日後には全国の皆さんが観るわけですから、やはりそういう中で代表としてコールを出すということは、そう簡単なものではありません。どうしてもファンの声、歓声等に揺れ動かされそうになりますが、私は見たまま、その時点でルール上しなければいけない事というものを優先して、レフリングをしているつもりです。私が、どちらかに荷担している等という事は絶対にありません。

そういう意味で2人の選手を治療したり、何かをしている時に、やはり彼等ぐらいの選手になって来ると、今までの戦歴なりというのを全て含めて、自分達と関わってくれた人達、練習をしてくれた人達や、試合の場を作ってくれている人達、という意味の関わり合いも含めて、色々な要素の中で今回葛藤があったと思います。私には色んなものが見えます。ただ、それに平然と打ち勝ちながら、尚且つこれだけの素晴らしい試合ができるというのは、やはり彼等の日常にあります。日常というのは、どんな食事をしてどうしたとか、何時に寝てどうとかという事ではありません。彼等の頭の中にある事、もしくは心というものがあるのならば、その心の中にあるもの、その部分で一本腹が据わっていると言いますか、強い決心を持って生きているという事です。それが精神力として一番大切な事です。これは効率を求められた現代人には一番難しい事かも知れません。それは効率を求めた人は、絶対に!精神力は甘くなります。「何をしたら一番上手くできますか?」「速く何かをする為にはどうしたら良いのですか?」という人に、ろくな人間は出ません!これはトレーナーをしたり、色々な人をみたり、関わって来たり、色んな選手を教えたり、という中で、私は声を大にして、絶対と言いたい! 今は効率を求めたトレーニングという事をしている場合ではない、という事です。そうではなく、今は例え、今日1日充実感がなかったり、何をしているか自分が判らなくなったり、不安に感じたりしても、何かを信じて、積み上げて行く時代です。今は効率良く適当に虚飾を張って、そうしてやって来たものが、事後精算で世の中にはこれだけの事が起きています。その時代に同じ事をしてどうするのか?という事です。ですからHow to 的な練習というものを、人間は塊として、一つの生命体として、ぶつかり合って物事をやっていきます。爆発的に火を放ちながら燃える時もあるし、炭火のように消えたと思っても、表面の墨を落とすと中には未だ赤々と燃えている、じっと燃やしているところ、それが出たり入ったりできるだけの肉体と頭脳を持ち合わせるという事が何と言っても一番大切な事だと思います。

これは格闘家だけではなく、一人の人間として物事を何か成し遂げようとするのであれば、そういうものが一番大切な事です。その中で、やはり文明というものに依存して安易に物事をしようとするところは、その人の欠落を表わすと思って下さって良いと思います。地味な練習をコツコツやる、自分の感性を磨いていく事です。解り易く言えば、お互い見合って殴り合おうとしている時の、お互いの距離感というものは、何センチ、何メートルの世界ではありません。自分がこの距離だと思っても、相手がほんの少し横にずれたりすれば、この間合いというのはずれてしまいます。空間に、ここの部分に来たら殴って良いというような、空間に印が付けられないのですから、その印は自分の頭の中、自分の身体の感覚の中に記すしかありません。それが出来るまでは、同じ事でもこつこつとやっていく、そういう精神構造を持たなければ三崎選手のようにはならないし、三崎君は多分、そういう練習をしてきて、そういう場から離れてみたら、私も経験がありますが、そういうものがないと不安に感じます。だから結局、その世界に戻ってこれるのだと思います。だからこそ彼は今、上に行ってるんです。そういう意味で、自分が自分がというような、私がどうするんだ、とかというものが強すぎる人、私が要領よくするにはどうしたら良いのですかという人は、精神的に強いというのではなく、ただ単にわがままであるか、ただ単に気が強いかという事であって、それはプレッシャーに対して、決して良い事ではありません。気が強い人は、序盤のプレッシャーに対しては耐えられるけれども、最後の最後に押しつぶされてしまいます。そういう人は逆に大きなダメージを受けます。これはプレッシャーと精神構造という、精神医学の中では完全に言われている事です。プレッシャーのバランス、対応バランスの中にそういう定義があります。では、どうしたら良いのだろうかと言ったら、まず自分が、“私が”という事ではなくて、自分を見つめ直すという事です。それが先に言った基本です。自分の基本とは何だろうか、ベースというのは何なのだろうかという事に立ち返って、丁寧にそれから積み上げて行く事です。

私がバックアップしている、あるプロスポーツ選手の話です。その選手は大変優秀な選手でした。デビュー当時は天才、いつかこの選手は大成するだろうと言われて期待されていた、試合に出れば入賞する選手でした。ただ、10年、15年とプロ生活を続けていく間に、決勝までは上がるのですが、もう20年になろうという時に、未だ優勝の経験はありません。最高位が2位です。その中で、ドンドンドンドンその選手を蝕んでいったのが、「自分は優勝する器ではないのでは?」という、自暴自棄の自分自身への間違ったイメージのとらえかたでした。そして、状況と相手に応じて自分は何をするのかというように勘違いをしてしまいました。何でそれが勘違いなのか? ケーススタディーが必要でしょう。「状況判断を知らないと」などと私も言います。でも、それは、その現場に立ってリアルな状況の中から情報を入手して判断せよ、という事です。短い時間でやらなければいけないんです。それを、試合前一週間、二週間になった時に、「自分のコンディションはどうなのか? この先どうなるのだろう? 今、怪我をしているけれども治るのだろうか? 試合当日は凄く良いコンディションでいられるだろうか?」と。話はずれますが、5月18日の菊田、近藤、両選手は、ともにベストコンディションだったのかと言ったら、私の所に来た時点では二重丸は付けられませんでした。まぁ、二人も人間ですから。その後は判りません。そういう状況でした。しかしながら、そこに迷いを生じさせない何かが在るというのが今回のテーマです。そして、先述のプロ選手というのは、その時点で試合の当日に、「会場はどうなのか? 試合の状況はどうなんだろう? 対戦相手になる人達はどんなコンディションで来るのだろうか?」と。そんなことをいくら考えたって全て想像の世界であり、リアルではないものという幻影に恐れおののきながら自分をどんどん過小化してしまう。「どうしたって自分は2位で留まってしまう器なのかも知れない」という、自分がどんどん顔をもたげて来て、その存在を大きくしていって、見る事も無い相手の状態がどんどん嫌な大きな存在に成っていくというのを、その選手は繰り返して来ました。今回大きなケガをしたりしながら、そして、それを打破する為に全て新しいフォーム、トレーニングの仕方も全て、身体の使い方も全部、実は全て一新しました。その中で、その選手が大きな壁を突き破ってくれました。自分の力で突き破った、というところに私は素晴らしい事だなと思います。

夜中の3時にメールが来ました。あまりに嬉しかったのだと思います。それは結果的にいうと、その選手に私が言い続けた事なのですが、その選手自身が強く感じて閃いた、自分の中でそれを創り上げたという事が、私は本当に嬉しかったです。それは何かと言ったら、自分が今までやって来た事と全く違う事をコツコツやって来て、それが初めは無理かな、難しいかな、と思ったものが、ドンドンドンドン自分の想像以上に自分を創り変えたり、今まで一生懸命自分の中で取り組んで来た世界で解けなかった謎が、私が教えていく中で、その謎が解けていく事が一つの自信となっていました。現実を見定めて、自分の劣っていた事、意外に自分が知らなかった長所、そういうものができていた時に、その選手は自分で自分のプレッシャーを跳ね除けました。練習中にケガをして、決して今も良い状態ではありません。良い状態ではありませんが、試合に向けて、その選手は黙々と自分のする事を考えています。要するに、自分はその試合に応じて、適材適所でどう判断して、何をするかという事が決まりました。それは、揺るぎ難い事です。それに対して、その試合の時に、どこでそれが純粋にできるのかという事です。それは“神のみぞ知る”という事です。人間は選ぶ事はできても、自分の勝敗、もしくは自分の選んだ結果を決定する事は自分にはできない、という事を悟りました。その事を理解できたんです。やるだけの事をやって、あとは天命にまとう。言われてみたら、言い尽くされた言葉なんです。でもそれを心底、自分の中で解る為には、本を何冊も読んだり、どんなカウンセラーにかかったたりしてそんな話を聞いても、それはあくまでも他人の作り事であり、それも作り事の世界の言葉になります。そうではなくて、確実に実行して来た歴史を持ったからこそ、その言葉にリアルなものを感じて、人間は変わる事ができます。ですから、要領良くやったらこうなるだろうなんていう薄っぺらな想像力、そんなものは、大きな大きな現実の世界には瞬く間に圧し折られてしまいます。

また余談にはなりますが、私は今、何年か先にプライベートで南極点に旅行に行こうと思っています。それはやはり苦行な旅行になると思います。もしかしたら人類発の試み(方法)で南極点に立とうとしているので、私がそういうプロジェクトにいる中で、失敗すれば本当に死んでしまうかも知れないプロジェクトです。その中でチームの隊長という方が、何回も南極の観測隊員であったり、エベレストに登ったりという事で、大変優秀な冒険家の方なのですが、その人と話しをした時に、「現場に入ったら、どうやったら良いいんだとか、何をしたら悪いんだとか、そういう世界ではないんですよね。多分、南極に着いたら、日常の様に、普段の休日の様に淡々と、朝、目を覚まして、出発の準備をして食事を取って、そして南極点に向かって淡々と歩き続け、進みます。そして、また止まる時が来たら、足を止めて、食事を取り、次にする事をして、準備をして、そしてまた歩みを進めて行く。淡々としたものを繰り返していった時にこそ、自分の大切な命を賭けたものの中で、大きな大きな目標を勝ち取る事が出来るんです」と、おっしゃっていました。それが自分の命を賭けて南極を制覇し、エベレストなり、なんなりの世界の山頂を制覇した男の言う事です。要するに、「こうなったら何が得するからこういう事をしよう。もしかしたら、こいつに勝ったらこうなるのではないか」。そうではありません。練習場に足を踏み入れたら、迷う事無く、当たり前の事を淡々として、そこには何の感動も無くて良いんです。それが日常なんです。それがあるから大歓声の中でお互い睨みあった時に、日常の練習が出せるからこそ、噛み合った試合(菊田VS近藤戦)ができたんです。充実した男が、ある部分完成した形の中で闘ったから、この試合は成立したんだと思います。それ故、他の団体のリングでは見る事のできない闘いだったと思います。多分、リマッチがあると思います。そのリマッチも、これ以上に期待できる試合になると思います。それが例え秒殺であったとしてもです。リマッチは“4ラウンド”目です。4R目の開始早々になるかも知れません。もしかしたらお互いの、それまでに費やしてきた練習の時間をラウンドで足した後、エクストララウンドの百何ラウンド目に決着のついた秒殺なのかも知れないという事を考えて欲しいです。

ちなみに、私もこのヒロト道場で、ようやく自分のやりたい形の中で、一般の方やプロ選手の肉体のレベルアップ、健康のレベルアップというものに少しお役に立てるよう、合宿所を購入する事ができました。これは大変素晴らしい所にあります。新潟、長野の県境にある妙高高原という所の施設です。実は私は、自分がケガをしてスポーツを一時断念しなければならなかった時に、そういう施設があったら良いな、そういう施療家がいてくれたら良いな、そういうトレーナーがいてくれたら良いな、という思いがあり、それは自分の一つの夢でした。自分が施療家、トレーナーになったとしたならば、いつかそういうものを自分で手に入れて、そして、その当時に、要するに現代に、悩める人の為に役に立つ、そういうものを用意できるように頑張りたいと思って、色んな経験をして来ました。まぁ、一口に言っても20年です。20年以上の日月がかかって、ようやくそこまで足ががりとしてやってきました。でも、まだ私は、それを手に入れるプロセスの中で、その20年の中で、もっと大きな野望を持っていたし、もっと大きな夢を持ち続けています。それを一つ自分の中で鍛えるという事もあり、南極のプロジェクトも考えているし、ヒロト道場のスタッフも、そうやって育成しています。私が20年といえば、うちの第一期の青木先生、小杉先先生、鈴木先生、という3人の先生は、その私の20年の下に、彼等も9年という日時が実はもう流れています。ですからこそ私は彼等を信用しているし、彼等に大きく道を譲っていきたいし、可能性も譲っていきたいです。そうやって人間は成長していくし、逆にそうやって一生懸命やっている私に対して手を借して下さる、苦節何十年という大先輩達が今回は本当に何人も私の名前の前に手を貸して下さいました。大変感謝したいと思います。そうやって時代というのは繰り返していきます。だからこそ先程お話したように、私が、私だけは、という人間は、絶対にこの世の中で一瞬得をするかも知れないけれど、埋没していくと私は信じるし、そういう世の中であって欲しいと思います。そういう意味で私は根性論を、この後何年も“根性トレーニング論”、そういうものを推進させていくし、そうやって人間を育てて行きたいと思います。それが今回の“Reashの視点”です。