流行の形であるとか、自分の表現の形や方法であったり、形、体つき、という意味を持ったり、色々な比喩のされ方がこの“スタイル”という言葉にはありますし、本当に広い意味の言葉だと思います。「Reash Project」には、5-ポインツ理論と、4-スタンス理論というものがあります。この形というのは、もちろん人間の身体の特性とトレーニング理論で練習をやり易く、技術が向上する為に私が考案している理論です。5-ポインツ理論というのは、どんな人にも共通の普遍的な法則です。人間の身体ではこうだよという、どんな人でもこれを意識してやって下さいというのが5-ポインツです。それに対して4-スタンス理論というのは、右利きの人、左利きの人がいたり、右目で良く見える人がいたり、左目で見える人がいたり、いざという時は右足でボールを蹴ったり、左足でボールを蹴ったりしたり等の利き足というような、そういう後天的なもの、個体差と同じ様に、その人固有の安定する立ち方に、いくつかの分類があります。それが4つあるということです。ここで言いたい事は、人間の身体の中の法則にも、皆同じ部分と、人によって違う部分/個体差がある部分、この2つの世界があって、それを融合、掛け合いながら自分の形というのが出来上がってきます。ですから、私がいつも考えるのは、自分はどうすればいいのか?もしくは私が教える場合は、貴方の場合はこういう風にしてトレーニングしなさいね、という感じで、それが重要な事です。

しかし、日本のスポーツ界というのは悲しいかな、野球の基本はこう、ラグビーの基本はこう、相撲の基本練習はこう、空手は基本はこうでなければならないという様に、スポーツのジャンルに差別が入ってしまっていて、肉体は皆同じで、競技によって人間はそういう様に変わる、といったような考え方があります。ですが私にしてみたら、お箸で食べ物を摘まんで口に運ぶのと、フォークでつついて運ぶのと、挟むという動作は別として、私は何ら変らないと思います。箸で食べ物をつついて食べるのと、フォークでつついて食べるというのは、これは全然差が無いと思います。そこで何を食べるかも関係ありません。豆腐だと箸の摘み方は難しいかもしれません、豆を摘まむのも難しいかも知れません。ですが、摘まんだものを口に運ぶという行為自体は変わりません。物が変わったら全て変わってしまう、というような感があります。サッカー用の筋肉、ラグビー用の筋肉、というような色々な事を言う人がいるんですが、私は、その様な差を考えるよりは、その人の身体の性質、個別の能力、そういうものに注目してあげる事と、それから守らなければいけない、身体のリズム、法則、それを、きちんと見極めてあげるだけでも、選手は息を吹き返して来てくれます。その部分が日本は体育文化の中で極めて少ないです。だから、それは基本というものが他にある、要するに自分がやろうとしているものにあって、自分をそれに全て合わせていかなかればいけないという日本人の感覚です。

そういうものと、基本は基本としてやった上で自分には何が合うのか?自分が何をするのか?自分は何をするのか?といった、あくまでも自分に主体がある、己に全てがある、これは要するに責任もある、という事です。そういう自分がどうなるのか?それに対して、どういう基本というものに取り組むのか?というところと、自分をそちらに融合させてしまうという事に、最終的な心のスタミナ、決心の仕方、言い方は古いですが腹の括り方、そういうものが、凄く私は関与してくるような気がします。

外国人選手もビビったり、あがったりします。ですが、1つオリンピックの会場なんかで感じる事は、試合場になったら本当に余所見なんかしていません。周りをキョロキョロあまりしません。いざとなったら自分の事だけに集中していきます。日本人は周りは何をしているのかな?とか、周りの人を確認してから自分もやろうとする様なところが昔から多いから、周りの人がやっていると、それに自分がどんどん感化されてしまいます。やはりそういう所に、最後のここ1発という勝負所、自分の世界を練習の中でしっかりと作れた奴は勝負感というものを逃がしません。それに対して、技術とか引き出しとかは色々なものを持ったのだけど、自分の世界、自分はこういう風に闘いたい、自分はこういう風にして生きていきたい等、自分の社会に対しての、プレゼンテーションはこんな所に重きを置いている、という様な自己の確立が出来ていない人は、いくら引き出しを多く持っても使いきれません。自己の確立を練習の間に行なってこれた人は、少ない引き出しであってもやりくりが出来ます。勝負をかける事が出来ます。それが、俗に言う、魂とか気持ちとかいう事であったりするのかもしれません。今、科学的なトレーニングで要領良く、段取り良くトントントンといこうとする傾向が凄く多いです。無駄を無駄だと思っている人、それは結局、自己の確立は絶対出来ません。例えば、ある選手が練習で威力のあるパンチが打てる様になった、というような時に、こんなトレーニングの機具を使ったり、ウェートトレーニングをやったり色んな練習をして、普通より早く、人より威力のあるパンチの打ち方を身に付けたとしても、パンチの打ち込みを小さくしたり、砂袋をきちんと打ったり、時間的な経過が無く技術を手に入れてしまうと、身体の強度が、その威力を耐える事の出来ないアンバランスな肉体を持ってしまいます。そうすると、本当に自分のベストな力を出すと自分が壊れるという、悲しい結末になってしまいます。ですから、コツコツやっていくという時間との闘いというものが、飽きたとか何とかいうものでは無く、必要だから手に入れるんだというところでの自己の確立。苦しい練習で身に付ける事ではなく、苦しい練習とか、怠けたい気持ちを封じ込んでいく事。そういうものが最も大切な分野だと思います。

今回の“スタイル”というのは、格闘技の世界でいうならば、もしくは男尊女卑ではなく、男の世界、という言葉を使うならば、私はこの“スタイル”という言葉を“美学”と置き換えてもらいたいです。美学を持っていない人間は、やはり、ここ1番で弱い、という事です。例えば、こういところで、こういう技が使えたら良いな、格好良いなという憧れはある。けれども勝負感を確実な物にするまで鍛え上げられていなければ、それは“美学”までは上がってきてはいないという事です。技術は上がって来ている、練習でも良い、でも試合の厳しさ、死ぬかもしれない中で、あの技が出せるのかどうか?死ぬかも知れないという覚悟の中で、プロレス技が使えるかどうか?そこまで自分を追い込んでいった中に、勝敗とは関係なく、その選手の美学が出てくると思います。ですから、そういった意味での“スタイル”。これは勝手に変更できるものではありませんし、変更していくものではないです。そういう意味で“美学”を目指してもらいたいな、と思います。

ちなみに私の美学、スタイルは、言わして頂くならば“男の美学はやせ我慢だ”というのが、私が10代からずっと言い続けて、そして私の崇拝する、故・パンチョ伊藤さんが、私に良く言っていた言葉というのも、そういう事に近いところです。それが私のスタイルです。