先日、地方の高校の、ある運動部に指導に出掛けまして、色々その競技を指導して来ましたが、行く度に感動して帰って来ます。何に感動するのかと言うと、この若い奴等はこんな短い時間で何でこんなに変わるんだろうと、変化のスピードに対してもの凄くびっくりしています。それを柔軟性と言うのか、発展途上だからと言うのか、彼等部員達に触れて色々なものを教える時に、その後ろにコーチの方や監督さん、顧問の先生が練習の場に一緒にいるわけです。逆に言うと自分も含めて何でこう大人になると対応力が無いのかなと、悲しみを持ったりします。それから若い奴らに対して、何だよこいつら、とムカつく時があります。これは何でかと言うと、大変教育されてる子供達なので指導を受ける態度が生意気だ、とかそういう事ではなくて、良い意味でムカつくんですが、私が20何年時間を費やしてまとめて来ている身体理論を彼等に伝えた時に、速い奴はものの10分、20分位でそれを体得してしまいます。体得してしまうと何の感動も無く、「本当ですね。これ楽ですね」で終わってしまいます。私が半生を懸けてきたものを、何の感動もなくやりこなしてしまうぐらいムカつくことはありません(笑)。逆に言うと、それが眩しくも見えるし、羨ましくも見えるし、私から言うのも何ですが、私の人生で創ってきたものを継承してくれてるわけで、心底それは物凄く嬉しい事です。

色々と考えて行くと、今までも何回か言ったと思いますが、大人というのは年齢を重ねていく事が果たして進化しているのか、という事です。大人の方がそんなに偉いのか、優れているのかという風に考えていった時に、肉体に関してはどうも当てはまらないのかなと思います。時代背景という事で、私も含めた40代30代の人間をワールドワイドに見た時に、一番陥ってしまう、早くそこから脱しなければいけないという事は、脳みそで四の五の考える事が多いという事です。それは教育国家であり、大変頭脳水準の高い日本国民の我々は色んな知恵も情報もあるし、頭で思考するケースが凄く多くあります。それは学校教育で推奨されていて、それが凄く理想的であるという所、大変良い事であるという認知の元でそれをしますが、実は考えるという事自体が、そこで終わってしまっている大人が凄く多いという事です。知った事を言語や文字に置き換えたというところで終わってしまっている大人が凄く多いという事です。今日び、「今の子供達は頭でっかちでさ」と言う大人が増えていますが、私は実は30代40代の我々の世代の方も実はそういう人の方が多くありませんか?と警鐘したいぐらいです。

確かに教えていて10代の子供達は知識も無いので未熟な部分というのはあります。ですが彼等は純粋で素直であれば、教わった事を自分の肉体、脳みそから神経で連なってくっついている筋肉に自分の思考を伝えて、その筋肉で自分の考えている事、それからやりたいと思った、判断した事を行動に起こしたりとかという事で、肉体においてアウトプットする事が出来ます。自分の思考、判断を。それに対して大人においては怠ける事が出来ます。ある意味権力を持って、発言権を持って、ちょっと抜くことが出来る、誤魔化す事が出来ます。言語という口を動かしたりする事ぐらいで、その場をすり抜けて行くKnow Howを身に付けてしまった人達が凄く多いという事です。自分が出来ないくせに、人にそれを強要する事、人が一生懸命やった事を、“何だお前、それ何々じゃないの"、ほんの十数文字でさっさとそれを、相手の努力を否定してみたり肯定して見たりする事、軽んじてみたりする事で、自分の知識が一つ高いところにあるんだというような所で摩り替えてしまう様な、そういう大人も増えている事も事実だなと、それを痛感する事があります。ですから若い人という事で、子供達というのは、一つ昔から言われている言葉で、“無限の可能性があるんだよ君達には”なんていうのは私も言われたし、子供達もそういう事は良く言われてる思ってます。確かに現実的にそうです。

その“無限の可能性"とは、別の言葉で言ったら幅広く思考して行く事を許されているということです。ですから失敗も許されているという世代です。失敗も許されている、という事を今の若い人達は気付かせてもらえていません。逆に言うと、ダメ出しで育てられてしまったり教育されてしまうと、失敗は悪い事だという風に身に染み込まされてしまうので、失敗しないようにする事、要するに既に飛べるハードルしか飛ばない子供が出来てしまいます。それが私は凄く危機感を持つ側面です。その部分だけをみたら今の子供はと思うのですが、実はそういう子供に仕立てているのは大人の私達です。今こうやって若い部員達、高校生達と接触して、そういう事を指導していくと、彼等はダメだしされる事の快感を待っているのをひしひしと感じます。何回か指導していく間に、私の所に来て、「廣戸さん僕の駄目なところは何ですか?僕はこういう風に上手くやりたいんですけど、ここの所を上手くするにはどうしたら良いのですか?」。彼等は目標を掴んで努力すれば自分は変わるんだという事を、変わっていく先輩、後輩、自分が出来なかった事が出来た瞬間という喜びを得る為に、敢えて出来ない事にチャレンジしていくという所に気付かせて貰った時に、彼等が自分の頭で思考を始めます。それが本当に学ぶというスタートラインです。学習の「学」という字です。学ぶというのは、一つ言えば、自主的、自分、自ら主体の、自動主体という風に考えていただければ良いでしょう。自分でダメ出しもします。

例えば2月15日(梅田ステラホール)の試合で言ったら、北岡選手は学ぼうとして、自分に負荷をかけました。こういう試合をする為に彼はどの様な練習をしたら良いのか、という事で、彼は今一生懸命学んでいます。その様な所において彼は若返っています。本来はそうでなければいけませんし、それが若者の特権です。しかしながらそこで大人は小さな失敗や、たった一つ二つのミス、ミスから生じた敗戦に目くじらを立てるよりも、どういうスタイルで彼等は道を切り拓いているかという、広い視野で彼等を受け止めなくてはいけません。それが指導者の度量に繋がっていきます。これは前回お話しした事になると思います。それに対して“大人"というのは何でしょう?と言うと、年を重ねる毎に私達は幅広い可能性から、どんどん選択をしていきながら、絞り込むと言う作業に入っていきます。良い大人が、僕は未だプロ野球の選手になりたいとか、俺は40歳過ぎてパイロットになりたいとか言っている人は、夢を見ているという意味では無くなってきてしまいます。絞り込みをしていく、要するに専門職にどんどん染まって、専門家になっていく訳です。そこに色々な意味の切り捨てがあったり、何かしていく事になります。ですが、そこでしっかりと学んでいる人が、絞り込んでいくのと、学ぶ事をしなかった人が絞り込むのとでは全然違ってしまいます。要するに底辺の所で学ぶという事が出来ていれば、アドリブを利かせながら、状況判断で自分の能力をどんどん広げて引き出しを増やしながら、歳を重ねる事が出来ると思います。そうでは無かった人というのは、どんどん切り捨ててしまう人で、要するに楽に物事を消化して来た人です。それはHowToというものを憶えて、それで対処しましょうというやり方です。

Know Howを使わない教育、Know Howを使わない行動を憶えていかなければいけないし、それが若人の時にやらなければいけない最も大切な事です。それをある人に言ったりすると、それはどうやったら憶えられるんですか?という質問をする人がいて、その時に全て終わってしまいます(笑)。それはケーススタディーに因って違うわけです。という事は今行われているケーススタディーのケースとは何かという事を、判断出来ない人はアドリブは利かせられないという事です。状況判断の出来ない人にアドリブは出来ません。状況判断をするという事は、その瞬間瞬間の集中力を物凄く高めて持っていないといけないという事です。ですから、これはこうすれば良いんだと、ボーッとしている人。何の試みもなく同じ事をずっと言っている人。僕はこういうタイプだから、僕はこうすれば良いんですと言う人や、今何歳だからこれぐらいは等など、そういうKnow Howで物事に入っていってしまうという事は、我々の良く使う言葉でKnow Howを習う、How Toを習う、という事になってしまいます。それは憶えれば良いだけなので、そこには思考が含まれず、楽なんです。大人はどんどんどんどん小手先だけになります。肉体と同じで、体幹部/体の中心から動かすのが“若人"で手足を動かして、バタつくのが“大人"だよと言っているのと同じ事です。動作自体も全身で動く事がしんどいので、適当なところで、小手先で物事を済ませてしまうのが大人です。それが習うという事になっていってしまいます。これは明らかに教えるという事、若しくは既存したHowToというものが主であって、あくまでも自分はそこから降りてくるものを受け止めるという事ですから、先程の“学ぶ"という自動主体に対して、今度は他動主体です。他人が主になってしまって、どんどんどんどん楽をして、他人に動かされ続けている時に、ある所で多くの大人が陥る“俺は一体何なんだろう?"という現実問題を突きつけられてしまう事があります。私は何なんだ、という疑問が生まれた時に、私はこうやってこういう事をする、というのを憶えてきて、こなした事が自分の歴史であるという所にしかすがる事が出来ません。そうすると、私はこういう事をして強くなった、もしくは私はこうやって仕事を憶えたんだという所に、自分の全てを集めなければならないので、セオリー通りにしてきた事が全てで、それが自分の歴史であるという認識になってしまいます。ですから逆に言うと、それ以外の方法論は駄目で、自分と同じものは○、自分と違うものは×という、「○」か「×」の世界になってしまいます。そうするといつも他人と闘うか、他人と評価しあわなければならないという大変息苦しい人生になってしまいます。私はそう思います。それが加年齢に対して、大人がどんどん頭を固くしてしまう事です。頭が固くなるという事は、実は心が固くなっているという事です。ですからそこが若者と歳を重ねた人間との差になって来てしまっています。本当は逆でなくてはいけません。子供は一人称で、「俺は俺は」で育っていく間に、人生経験が豊富で、こういう人生もあり、こういう人生もあり、こういう生き方もあるんだと、切々と教えてくれるというのが人生の先輩であったと私は思います。それが今、逆転しつつある所に、ちょっと危機感があります。

私が今、子供達に教えている基本理念の一つに、自分と他人は全て同じではありません、人間の体は皆同じ部分と、いくつかのパターンで人と自分は違う反応をする部分があるという事、その部分をしっかりと身に付けるという事が、スポーツで言えば実はパフォーマンスを高くする事に繋がるし、それがチーム力を上げる事にも繋がります。要するに自分と同じ事をしていなチームメートも実はそこには意味があって、打ち方が投げ方が走り方が違っていても大いに結構です。そういうものだと認め合うことが、実は自分と相手は違うという事を認めた瞬間に相互理解が得られます。そしてそこに愛情が生まれたり、お互いの認知が生まれます。今は一律で物事をやらせよう、教えようとしてしまった為に、出来る子、出来ない子を無理矢理作ってしまいました。それを言い換えるとスポーツセンスで、ラッキーな子供はセンスがあるという事で前に進められるし、自分に合わない事を要求された子供はセンス無しと切り捨てられてしまいます。私はそこを憂えて、その現実を凄く悲しく思っていたので、話をまた元に戻しますが、若い人には無限の可能性があるという事を実証する為には、その個体差をしっかり子供達に教えなければチーム全体の能力は上がらないという所で、今私はそういう指導法をとっています。それは若い子達がたった2時間の練習で、いきなりガラッと変わるという所に監督もコーチも皆目の玉を丸くして驚いて下さっています。そして子供達はそうやって自分が一瞬にして変わる事を凄く喜んでいるし、自分が中々変わらないけど、自分のチームメートが変わる所を見る事で、自分も変われるだろうと、可能性にチャレンジする子も出て来るし、もっと変われるだろうともっと努力する子も出て来るという所に、今私は凄く触発されてるし、自分も核心に触れさせてもらっています。
凄くシビアな世界ですが、認め合えるという事は、歩み寄る事ではありません。そこの所が今、若者と接していて痛感させられていて大変楽しく思えている、そんな部分です。