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20年前の秒殺ブームの勢い再び――パンクラス酒井社長×鈴木みのる第1弾

Photo:田栗かおる

PRIDEが消滅して以降、日本総合格闘技界のブームが落ち込む中、パンクラスが今熱い――2012年5月にプロレス団体スマッシュを運営していた酒井正和社長が就任して以降、世界標準を打ち出し、海外強豪選手を続々参戦させ、UFCのオクタゴンを意識させる10角形ゲージ「デカゴン」へ移行、王者クラスの選手にはファイトマネーのボーナス支給、そしてUFCとのファイトパス契約など次々と改革に乗り出した。そして極めつけは4月19日からテレビ東京による12年ぶりの地上波復活(4月19日『パンクラス これが2015年メジャー格闘技だ』/26時35分~)。

もともとパンクラスは1993年に新日本プロレスやUWFで活躍していた船木誠勝鈴木みのるを中心に設立された。93年9月21日、東京ベイNKホールでの旗揚げ戦では、全5試合の合計がわずか13分5秒で終わるなど“秒殺"という新たな単語を生み出した。そして、キャリア、年齢もまったく関係ない完全実力主義、リングに上がる選手たちが作り上げた極限まで絞り込んだハイブリッドボディ、黒と赤によるバッテンマークのスタイリッシュな団体ロゴは当時の格闘技、プロレス界に大きなブームを巻き起こした。

その後、創設者である船木や鈴木が団体を離れ、プロレス団体から総合格闘技興行会社へと大きく舵を切りつつも、2013年には20周年を迎え、新たなステージへと上りつつある。

今回、酒井社長とパンクラスの“生みの親"である鈴木みのるに過去、現在のパンクラスを語り合ってもらいつつ、未来のパンクラス像を炙り出す。
(取材日は3月15日・ディファ有明/インタビュアーはパンクラス創立時から取材をしているスポーツライター布施鋼治)

パンクラスはただの格闘技団体じゃない

Photo:田栗かおる
2人が初めて顔を合わせたのはいつですか? またそのときの印象はどうだったんでしょうか?
酒井 4、5年前ですかね。鈴木さんはお客さんに魅せるプロレスを本当に良く分かっていて、スマッシュに上がっていた小路晃にそれを叩き込みたくてスマッシュに参戦してもらったんですよね。
みのる プロレスに力を貸そうなんて奴は大体ろくな奴がいないんで、ぶっちゃけ(笑)。だから今時珍しいなと思って。でも話をしたらすごい熱意がある人だった。でも、その時はそれだけでしたね。オレはすぐに自分の試合をやって、さっさと帰っちゃったので。
その後、2012年に酒井さんがパンクラスの社長に就任します。それを聞いてびっくりしませんでした?
みのる びっくりはしなかったけど、大丈夫かなっていうのは確かにあったですね。オレはどこの団体でも選手のほうが近いので、選手からいろいろ話を聞くじゃないですか。
いろいろな話を後輩から聞いていた、と?
みのる 後輩から? いや、後輩じゃないです。年齢とキャリアが下なだけであって。で、いろいろな話を聞くじゃないですか。ようはオレが聞いている酒井さんという人物がいて、それを聞いている話だと大丈夫なの?っていうのは確かにあったですね、正直。それで、一番最初に食事をしましょうってなって、会って話をしたときにやっぱり人間って直接話さなければ分からねーなって思いましたね。
そのときに熱意を感じたんですか?
みのる 熱意を感じたのと、正直に自分が思っていることをちゃんと伝えたつもりなので。
明かせる範囲でどんな話をしたんですか?
みのる もったいなくて言えない。
ちょっとだけ教えてください(笑)。
みのる パンクラスってただの総合格闘技の名前とか、会社とかじゃない状態でスタートしたんですよ。1993年に僕ら7人しかいなくて、そのうち2人はまだデビューもしてませんでしたから。選手としては5人しかいなかったんですよ。なんの当てもなく、会社の作り方も知らないまま始まりました。そこで、どうしよう、俺たちだけじゃできないって、なけなしの金で格安チケットを買って協力者を探しに自分たちの足でアメリカに行って、オランダに行って。
それでアメリカにはケン・シャムロックがいました。オランダではピョンピョン飛んでる面白い奴がいるなってなって、「お前日本来る?」っていう話をして、「もちろん、もちろん」って。それがバス・ルッテンでしたね。ぶっちゃけあんな強いとは思っていなかったから(笑)。ただ、いい選手だなとは思いましたけど。あと、もちろんカール・ゴッチさんという協力者を得てスタートしました。
僕らはチケットの売り方も知らないし、会場の抑え方も知らない。その辺のところから一からスタートしました。でも年を追えば追うほど薄れていくんですよ。今の選手がそんな苦労を知らなくて当然なんですけど、ただそれを知っているだけでもいいから、知ってその意志を継いでほしい選手たちがいたので。それがパンクラスismの選手たち。でも、ismも内弟子というか、練習生の制度を取っていなくて、もう最近の選手もいないんですよ。
その中で新しい社長として酒井さんが来たので、まず酒井さんに一競技の代表にただなるだけということではなく、先人たちの思いをちょっとでも理解してほしいなと思って。
酒井さんはその話を聞いてどうだったんですか?
酒井 僕はパンクラスの旗揚げ戦も見に行っているし、僕はパンクラスのことを良く分かっていました。では何でパンクラスをやったかというと、もしオレがパンクラスをやっていたら、ここ10年はこういうふうにやっているのになっていうのがあって。今本当に鈴木さんが言っていたように、普通の格闘技団体じゃないんですよね。これはもうパンクラスだけのものじゃないんですよ。僕が引き継いだときに何をしなければいけないかって言うと、やっぱりその歴史をいかに今風に持っていくか。それが僕のテーマなんですよね。だから20年近い歴史のあるパンクラスというものを僕流に広めるかっていうのを、あらためて鈴木さんと会ったときに感じました。

道なき道を行っている自負があった

酒井社長体制になったパンクラスをどう感じていますか?
みのる (力強く)まさに「ハイブリッド・レスリング」(パンクラスのスローガン)です。 ひとつの種族で続けていくと血が濃くなって弱くなると言うじゃないですか。だからよそからいろいろな嫁をもらうわけですよ。新しい血の入った子供ができるわけじゃないですか。その繰り返しをして、その国は強くなっていくはずなんです。それは最初は選手個人の思いでスタートしたものが、今は違う選手たちを入れていくようになって、試合自体がハイブリッドするようになっていった。次にパンクラスは何回かにわたって新しい経営者という形で入れ替わっているんですけど、それによってその都度その都度新しい血が入ってきているので、まさにハイブリッド!!
あとは生き抜いていくためには、進化をしていかなきゃいけないんですよ。でも進化って時代に合わせて何か変わったものしか生き残れないんです。もし、急激に暑くなったら、その暑さに耐えられる種類がいっぱい出てくるわけです。その中で残ったものだけが進化って言われる。最初の考えだけでずっと凝り固まっていたら、最後は消えてなくなっちゃうと思うので。入れ替わることは逆にいいことなんじゃないかな。生き残るためのひとつの方法だと思います。
酒井社長はハイブリッドという言葉は意識していましたか?
酒井 そうですね。もちろん新しいものを生み出していくのが僕のテーマなんですよ。本当だったらやっていたなってことがいくつもある。だから僕がいろいろ改革をやって話題になったりもするじゃないですか? あれはまだ僕にとっては改革をしていないんですね。パンクラスがやんなきゃいけなかったことを、ちょっと僕の中で戻してやっているだけです。そこが埋まらないと次のステップにいけないから。
今は当然時系列でいろいろやっていますけど、僕が目指しているのはそういうところじゃないんですよね。それは20年前に秒殺でガーとブームになった、あの当時の熱気、勢いを出していきたいですよね。
酒井さんがパンクラス時代に印象にある鈴木選手の試合はありますか?
酒井 やっぱり船木さんとの試合ですよね。あの試合は良かったですね。とにかく2人が格好良かったんですよね。それこそハイブリッドボディというか。どうやったらあんなボディになるんだろうって、そういう一種の憧れがありましたね。
みのる 日本にそういうものがなかったですからね。K-1やUFCも同じ年にスタートしましたけど、そこまで人気が出る前でしたし。正直僕らが旗揚げしたときに、人気が出るようにはもちろんしましたけど、あんなになるとは思わなかったですもん。ある種社会的なブームになったので。NHKでもプロレスでは何十年ぶりという力道山以来の特集を組んでもらったり。そういうのもすごい大きかったですね。
旗揚げメンバー7人がハイブリッドボディにしたのは大変じゃなかったですか?
みのる いや、大変ではなかったです。ただプロレスの古い20年前の常識からしてみたらすごいことなんですけど、今の選手のほうがもっとすごいことをやっています。
もっと鳥のささみを食べたりとか(笑)。
みのる いやいや(苦笑)。今の選手のほうが体を作る技術も、能力を上げる技術も何十倍という単位で全然はるかに上ですね。今の選手たちは今までの歴史の中でできてきたものをかいつまむことができます。僕らは何もなかったので。減量と言えば食わない、飲まないしかなかったし。だからゼロから1が一番大変なことなんですよね。1は積み重ねてさえいけば、10にも、100にもなるんですよね。
当時は道なき道を行っているような自負はあったんですか?
みのる あったですよ、もちろん。

空白の10年を3年で急速に戻す

スマッシュを経てパンクラスに関わっていますけど、スマッシュ時代の成功と失敗はパンクラスに生かされていますか?
酒井 スマッシュをやっていたのは、プロレスを通じて見に来ている人に感動を与えたかったんですよ。感動が記憶に残って次のステージに行けるじゃないですか。僕はいつも感動というのをテーマにやっているので。それが震災後はスマッシュでは僕の中で感動を生むことができないという感覚になってしまって……。じゃ、その次に何ができるかっていうのがあったときにパンクラスの話があったんですよね。
みのる 縁ですよね。
酒井 僕の中でリアルとして、スポーツとして感動を生む、そういうところでチャレンジをしてもいいかなという気持ちになって。でも、すぐに僕はやるとは言っていないんですよ。少し時間をもらって、今のパンクラスの現状を見させてもらって、何回か会場に足を運んで考えましたよね。僕もパンクラスが大好きだったので、すぐにやりたいって言いたかったんですけど、やはり歴史があるので逆にしっかりやらないとダメだと思ったし、当時の社長だった川村(亮)が一生懸命やっている姿を見て、もがいているなというのはすごい見てて分かったし。その中で自分の役割って何だろうというのはありました。
みのる もともと旗揚げのときの社長がいて、次にドンキホーテグループがやって、次に川村が社長をやりました。それぞれみんないいところ悪いところがずっとあったんですけど、一気に何の経験もない若い川村が人の上に立ってすごく丁寧な仕事をしました。 そこしか能力がなかったからなんですけど……。
でも、その部分というのは大きな企業の人は絶対に見過ごしちゃう部分だったと思うんですよね。それは酒井さんでも普段だったらそのまま見過ごしちゃうところかもしれない。ただ、今は外から見ている感じだと、酒井さんが見えないところを川村がやって、川村が見えないところを全部酒井さんが請け負って、うまくやってくれている気がしますね。川村は一番下のところで個人のつながりとか小さいことはできるんですけど、上は見ることはできないので。
酒井 僕は経営を任されることに対して、どれだけのリスクがあるかは当然分かっているわけじゃないですか。うちはコンサル会社もやっているので。そういうノウハウも生かしていきたかった。
僕は10年間の期間でやっていたはずのことを3年間で急速に戻したいなと思っていました。それは個人レベルでやっていたら無理なんですよ。そこはある程度大きいところと話をさせてもらったりとか、海外にどんどん目を向けたりとか、いろいろやっていかないと埋まらないですよね。
みのる 企業のできる仕事の枠と、個人商店のお店のお兄ちゃんのやれる仕事は全然違う。大きい小さいはもちろんあるんですけど、いいものが両方にあるので。それが今うまくくっついたから、いろいろな面でパンクラスが動くようになったんじゃないかなという気がしますね。

国内でいがみ合っている時代じゃない

鈴木さんの目から見てもパンクラスは頼もしい組織になりましたか?
みのる 頼もしいのももちろんなんですけど、旗揚げからずぅーーと犬猿の仲だったところと全部仲良くなっていただいて(笑)。もちろん俺らが退いたからというのは大きいと思うんですよ。時代が解決してくれたというか。それはリングスがひとつ、それと修斗がひとつ。ここは大きいですね。同じようなことやっているのに、みんな喧嘩しているんですもん。オレが一番、オレが一番って言って。
90年代は本当に仲悪かったですもんね。
みのる 悪かったですねぇ。選手同士が会ったこともないのに、なぜか憎みあってるんですよ、全員が。これは不思議な状況だったですね。会ったこともないのに憎んでるんですよ。言葉悪いですけど、死ねばいいのにって思うぐらいの憎しみ方をそれぞれがしていたので。もちろん今までもいろいろな人が努力して穴埋めはしてくれてたんだと思うんですよ。それを解決したのは、間違いなく次のステップへすごい大きな一歩ですね。
酒井さんは人をまとめるのは得意な方じゃないですか。
酒井 そうですね。今僕は海外と話をしているんですけど、3年前にラスベガスのテレビ局に行って、「パンクラスって知ってますか?」ってテレビ局の偉い人に聞いたことがあったんですよ。「パンクラスは知ってる。プロレスだよね」って言われるんです。あとはロサンゼルスに行ったときにも「パンクラスを知っていますか」って聞くと、やっぱり「知っています」と。20年間のパンクラスって世界に広まっているんですよ。
一方、国内のメディアってそんなに一般の人に行き渡ってないじゃないですか。各団体それぞれの世界観なんですよ。これって大きな差があって、ようは日本の格闘技界に関してガラパゴスになっているということです。総合格闘技が生まれた文化のある日本、秒殺がブームになったパンクラスでさえも、ガラパコスになりつつある、と。もう国内の団体同士でいがみあっている場合じゃないよね、と。
「パンクラスはプロレスですよね」ってラスベガスで言われたときに、本当に衝撃を受けました。僕は当然MMAだと思っていたので。だからそういう風に言われて、すぐ日本に帰ったときにパンクラスMMAってロゴに入れました。
みのる 今の時代になって、僕も修斗関連だと中井祐樹、彼とは連絡取ったりとか、会ったりするんですけど。あとはリングスだと前田日明さんとも今は普通に話せるようになったんですけど(笑)。みんなと話してると、結局1個のところからすべてスタートしているんですね。全部カール・ゴッチさんなんです。
修斗は元々シューティングという名前だったんですよ。佐山(聡)体制から次の体制になるから名前を変えようとなって、内定していた名前が実はパンクラスだったらしいんですよ。だけど僕らのほうが先に生まれちゃったので、その名前を使わなくなったんですよ。そういう歴史があるみたいなんですよね。
リングスにいたっては元々一緒にやっていた人なので、先生も一緒なんです。結局みんな血を分けた兄弟というか。よくマスコミに近親憎悪と書かれたんですけど。兄弟喧嘩が息子や孫の世代になってまたひとつになってきたという感じがします。
鈴木さんは当時の怒りとか憎悪とか今はすべて消えていますか?
みのる また別のものでありますけどね(笑)。パンクラスに関してはまったくないですね。僕がパンクラスから選手として抜けるときに、パンクラスismの選手を集めて「すべて譲る」って言ったんですよ。「すべてを譲る」という意味もちゃんと言いました。譲るというのはもちろん権利とかもそうなんですけど、ここを潰すのも、残すのも君ら次第だし、残してほしいとも、潰さないでくれともオレは言わない、と。それが任せるということだと思うので。何を選択するかも彼ら次第であって、任せると言って渡したので。これからその憎悪の塊で隣に行きますけどね(笑)。
※取材後、みのるは隣のノア有明コロシアム大会に参戦し、丸藤正道の持つGHCヘビー級王座に挑戦した
2015年4月15日 スポーツナビ掲載